【再録】2013年7月14日(日)実現する会 共同代表汐見稔幸基調講演録

2013年7月におこなわれたイベントでの、当会共同代表汐見稔幸さんの講演録を再度掲載します。
「教育機会確保法」が成立してから一年を振り返り、そして法律の附則に記された「三年以内の見直し(あと二年です)」に向け、私たちが何を目指してきたのか、再度ご覧ください。

年明け、2月24,25日には「多様な学び実践研究フォーラム」も開催。
皆様の思いも、あつく語っていただきたいと思います。

共同代表汐見稔幸基調講演録 2013年7月14日(日)

こんにちは。私たちが目指している「子どもの多様な学びの機会を保障する法律」ですが、この法律が本当に通れば、日本の学校教育全体も大きく変わっていくんじゃないかというふうに思っていまして、すごい期待を持っています。今日は、私たちが作っているこの法案が、どういう意味で今の法制に新しいものを付け加えるのかを考えたいと思います。

■キーワードは「普通教育」 ~ 憲法・教育基本法・学校教育法の規定を解く

キーワードは「普通教育」という言葉です。日本国憲法に、まずこう書いてあります。

【憲法第26条】
すべて国民は法律の定めるところに、その能力において等しく教育を受ける権利を有する
②すべて国民は法律の定めるところによりその保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負う。義務教育は、これを無償とする

教育は権利であるということが最初に書いてあります。この「国民」とは、子どもを含んでいるわけです。したがって義務教育というのは、子どもが受ける義務ではなくて、保護者あるいは国民が、子どもにきちんとした普通教育を受けさせる義務を背負ってるんだ、という書き方になっているわけです。
ここで「普通教育」というキーワードが出てきます。その普通教育を義務として、その義務は国民が子どもに教育を受けさせる義務で、それは無償とすると書いてあるんです。ただし、ここでは普通教育とは何かということは定義されていません。よく使われる言葉でありながら、教育学のなかで最も検討されてこなかったのが、この「普通教育」という言葉だと思います。これは何を指しているのかは、この条文の限りでは分からないんですね。

この憲法を受けた上で、教育基本法にはこう書かれてあります。
【教育基本法第5条】
国民はその保護する子に、別に法律で定めるところに普通教育を受けさせる義務を負う
②義務教育として行われる普通教育は、各個人の有する能力を伸ばしつつ、社会において自立的に生きる基礎を培い、また国家および社会の形成において必要な人とされる基本的な資質を養うことを目的として行われるものとする
③国及び地方公共団体は、義務教育の機会を保障し、その水準を確保するため、適切な役割分担及び相互の協力の下、その実施に責任を負う
④国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業料を徴収しない

ここで確認しておきたいのですが、普通教育は国民の義務だと書いてありますが、これをどこで、どういう形で行うかということについては書かれていません。つまり、普通教育を受けさせる義務は、学校で行わなきゃいけない、とは書いてないんです。普通教育を受けさせる義務を負うということだけが、はっきり書かれているわけですね。形態については一切書かれていないということです。

その次の第6条は学校教育です。
【教育基本法第6条】
法律に定める学校は、公の性質を有するものであって、国、地方公共団体及び法律に定める法人のみが、これを設置することができる
②前項の学校においては、教育の目標が達成されるよう、教育を受ける者の心身の発達に応じて、体系的な教育が組織的に行われなければならない。この場合において、教育を受ける者が、学校生活を営む上で必要な規律を重んずるとともに、自ら進んで学習に取り組む意欲を高めることを重視して行われなければならない

この学校について、普通教育を行う場としての学校、という形では書いていません。第2項も、普通教育、義務教育との関係で学校教育のことが規定されているわけではないんです。学校というものの持っている一般的な性格を書いているだけです。ですからこの5条と6条の間は、必ずしも繋がっていないんですね。

問題は学校教育法なんですね。学校教育法第16条にはこう書いてあります。
【学校教育法第16条】
保護者(子に対して親権を行う者(親権を行う者のないときは、未成年後見人)をいう。以下同じ。)は、次条に定めるところにより、子に9年の普通教育を受けさせる義務を負う

ここに9年とありますが、ここで普通教育が出てきます。

問題は、次の第17条なんですね。
【学校教育法第17条】
保護者は、子の満6歳に達した日の翌日以降における最初の学年の初めから、満12歳に達した日の属する学校の終わりまで、これを小学校又は特別支援学校の小学部に就学させる義務を負う

ここで初めて、親の義務は「小学校または特別支援学校の小学部に就学させる」という形で行う、というふうに読み取れるわけですね。これは、普通教育は「小学校または特別支援学校の小学部に就学させ」てやるんだと読み取るのか、または義務一般を言っているのであって、普通教育のことではない、と読み取るのか。そのあたりは解釈の分かれるところだと思います。
そして第18条では、
【学校教育法第18条】
前条第1項又は第2項の規定によつて、保護者が就学させなければならない子(以下それぞれ「学齢児童」又は「学齢生徒」という。)で、病弱、発育不完全その他やむを得ない事由のため、就学困難と認められる者の保護者に対しては、市町村の教育委員会は、文部科学大臣の定めるところにより、同条第1項又は第2項の義務を猶予又は免除することができる

この場合の「猶予または免除」において、「その他やむを得ない事由のため」ということについては細かに規定はしていません。これを拡大解釈することは、いくつか行われています。
それから、
【学校教育法第21条】
義務教育として行われる普通教育は、教育基本法第5条第2項に規定する目的を実現するため、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
一  学校内外における社会的活動を促進し、自主、自律及び協同の精神、規範意識、公正な判断力並びに公共の精神に基づき主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
二  学校内外における自然体験活動を促進し、生命及び自然を尊重する精神並びに環境の保全に寄与する態度を養うこと。
三  我が国と郷土の現状と歴史について、正しい理解に導き、伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する態度を養うとともに、進んで外国の文化の理解を通じて、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。
四  家族と家庭の役割、生活に必要な衣、食、住、情報、産業その他の事項について基礎的な理解と技能を養うこと。
五  読書に親しませ、生活に必要な国語を正しく理解し、使用する基礎的な能力を養うこと。
六  生活に必要な数量的な関係を正しく理解し、処理する基礎的な能力を養うこと。
七  生活にかかわる自然現象について、観察及び実験を通じて、科学的に理解し、処理する基礎的な能力を養うこと。
八  健康、安全で幸福な生活のために必要な習慣を養うとともに、運動を通じて体力を養い、心身の調和的発達を図ること。
九  生活を明るく豊かにする音楽、美術、文芸その他の芸術について基礎的な理解と技能を養うこと。
十 職業についての基礎的な知識と技能、勤労を重んずる態度及び個性に応じて将来の進路を選択する能力を養うこと。

ここで初めて普通教育の中身が10項目出てきます。これが普通教育の内容だというふうに紹介されているわけです。

もう一回整理しますと、憲法と教育基本法には、「普通教育を行う」ということが規定されていて、その普通教育を「義務教育としてやる」という形になっている。その義務教育を「どこでやるか」については教育基本法には書いていないんだけれども、学校教育法には、その義務教育はどうも「学校でやれ」というふうに書いてあるように読める。でも、それは「義務教育」であって「普通教育」との関係は明らかではない、ということですね。これが現行法です。

■「普通教育」は市民社会・市民教育とセットであるもの 
           ~ ルソー『エミール』から解く

つぎに、この「普通教育」という言葉が、どういう経緯で使われるようになったかということです。これはかなり昔からある用語で明治時代から使われている言葉なんです。
戦前の教育は国家の臣民を育てるという教育であったために教育勅語その他がすごく利用されたわけですが、戦後は「特定」の、つまり天皇を崇拝するような臣民を育てるというふうな目的に添ったような教育ではなく、また「特定」の職業的な技能を教育するような教育でもなく、「特定」の宗教を信仰するようになるための教育でもなく、つまり「特定の目標」に添って行われる教育ではなくて、人間として、例えばこの日本という世の中で生きていく際に、誰もが必要とする素養、知識、態度などを教育する「共通の教育」あるいは「一般的な教育」ということだと理解していいのではないか、そのような議論がありました。つまり、「普通教育」とは、対置する「職業教育」「宗教教育」「臣民教育」だとかという「特定の教育」とは違う、人間として必要な素養、人間としての豊かさ、そういうものを身につけるための教育だ、というふうに考えていいのではないかと思われます。

これを理解するために、西洋から入ってきた考えをみてみます。例えばフランスの人権宣言を日本では「人権宣言」と訳してしまっていますが、元の言葉はそうじゃないんです。Declaration des Droits de l’homme et du Citoyen、英語で言うと、the Declaration of Rights of Man and Citizen というのが元の言葉なんですね。「人および市民の権利の宣言」ということです。「人および市民」という書き方で、必ず対で出てくるんですね。このあたりは日本であまり理解されなかったんだと思います。これを「人権」というふうに訳してしまっています。
「人」と「市民」というのは必ずセットになって出てくるのはなぜか。これは、ルソーの『エミール』を読めば非常によくわかると私は思っています。『エミール』は、『エミールあるいは教育について』というタイトルなんですけれども、なんで教育学者でも何でもなかったルソーが教育論を書いたのか。実は、ルソーは『エミール』を書く前に『社会契約論』という大事な本を書いています。ルソーが考えたのは、キリスト教の「契約」という言葉を世俗化させて「社会契約」という形で行う市民が政治の主体になるような制度なんですね。それをどうやって構想するかということで、ロックだとかホブズボームだとかを引き継ぎながら書いたものです。要するに、市民と政治をやる人が契約をして、市民の意向に添った政治をしてもらいたい。その時に、市民一人ひとりの意思ではなくて、市民の共通の意思、一般意思といいますが、それに基づいて政治をしてほしい。一般意思とは今でいうと法です。法に基づいて政治をしてほしい。それに違反した場合には、契約を解除して、あなたの首をすえ替えますよ、というような政治制度をつくればいいんだ。そういうことを提案したのがこの『社会契約論』なんですね。それまで王様だとか貴族が支配していたものを組み替える新しい提案をした。当時の人にとっては、市民が政治の主体になるというのは思いもつかなかったことで、それは大変新鮮な影響を与えました。フランス革命は、このルソーの理想に従って、ルソーの理想を実現しよう、と広場とかに書いて、立ち上がったんですね。

ところが、「市民が政治の主体になる」ということに関しては、大変なリスクがある。なぜかというと、古来、政治の権限を市民に与えたときに、市民が賢くないと、とんでもない社会をつくっていくということがあったからです。その一番のモデルは古代のアテネですね。プラトンが『国家論』という本を書いているんですが、その中身はほとんど教育論です。プラトンはその先生であったソクラテスという人のことをいろいろと書いているわけですが、当時、アテネの若者をつかまえてはいろんな議論をふっかけて煙に巻くようなことをやっていました。アテネの社会では、政治をどうするかということを論じて、そして決めて行動するのが市民の責務だったんですね。だから、市民はアゴラという広場に集まって絶えず議論していて、かっこいい議論をしたら英雄になれるわけです。そのためにかっこいい議論をして相手を打ち負かすようなことができる力をみんな鍛える。そういう塾がいっぱいできていたわけですね。その塾の教師のことをソフィストと言ったわけです。
ソクラテスはそういうソフィストをつかまえては議論でやっつけて、「結局お前は何も分かってないじゃないか。お前と俺の違いは、俺は自分は何も分かってないことを知っているけれど、お前はそうじゃないってことだ」などと煙に巻いていったわけです。次第に、そのソクラテスという人間を忌み嫌うようなグループができていく。すると市民が密かに訴えた。「ソクラテスは我々やアテネも宗教も全部否定したとんでもない男だ」ということでソクラテスは捕まってしまいます。そして、今で言う陪審員の裁判が行われた。当時は200人くらいの裁判員がいて、判決は死刑だったんですね。それを見ていたプラトンは激しく憤った。「ソクラテス先生は何も間違ったことはやっていない」と。だけど、市民がバカだと、結局、ソクラテスに対して死刑という判決を出してしまう。しかしソクラテスは「市民がそう言うんだったら私は従いましょう」と言って、毒を飲んで死ぬわけです。
そのようなことがどうして起こってしまったのか。プラトンは、「政治の権力が市民にあるからだ。だから民主主義は、ある意味では一番危険な政治形態だ」と考えた。『国家論』の中で、結局一番いい政治は何か、ということを論じました。芸術家がやるのがいいのか、職人がやるのがいいのか、結局一番いいのは、様々なことを最も冷めた論理で判断できる哲学者が政治をやるのがいいのだ、というようなことになるんです。のちに「それは哲学者独裁だ、社会主義だ」など批判する人もいたのですが、とにかく、その気持ちはよく分かります。

しかし、ルソーは「自分はやっぱり、それでも市民主義、民主主義がいいのだ」と、決意するんです。ルソーは『社会契約論』で改めて民主主義というものを考えます。今まで書かれた教育論の中で一番優れたのがプラトンの『国家論』だ。しかし、それでも市民主義っていうのを考えた。そのときに条件になるのが、その市民がバカだったら大変な社会になるぞっていうことです。だから、その市民が、自分のことを大事にしながら、同時に全体の利益というものをいつも考えて行動するような人間にならなければ、市民社会というものは実現できない。ではそういう人間はどうやって形成したらいいのか。そのために書いたのが『エミール』なんです。ですから『エミール』は、『社会契約論』とセットなんですね。『エミール』は、市民をどう形成するかという本なんです。

ですが、その前半部分では、公のこと、公の論理のことなどは、ほとんどひとつも出てこないんです。自分を本当に愛することができなきゃいけない(アムール・ド・ソア)だとか、人の悲しみに一緒に悲しむ(ピチエ)だとか、そういうことを豊かにやっていかなきゃいけないとだとかね。
公的な行為ができる人間は、自分を最も大事にできる人間でなきゃいけない、つまり、人間として豊かであることで同時に公的な論理のために振舞える。その公的な論理のために振舞える人、つまり公共善を実現するために振舞う人を「市民」というわけですけども、その人は人間としてきちんと豊かでなければだめなんだと論じた。これを両立させるような人間形成論っていうのを提案したのが『エミール』なんです。

こういう文脈で考えますと、私は、「普通教育」というのは、こうして市民になるためにまず人間としての豊かさ、感ずるものに感じ、人の悲しみに悲しむ、一緒にやるべきときに協同できるような、そういう人間としての基礎力というものをしっかり育てていく人間の教育のことだと考えてよいと思います。そういう意味で、「普通教育」というのは、そういう人間としての基本を育てるような教育のことで、それは市民教育とセットになっているものだ、というふうに考えたら、分かりやすいんじゃないかと思います。
文科省は「普通教育とは、通例、全国民に共通の、一般的・基礎的な、職業的・専門的でない教育を指すとされ、義務教育と密接な関連を有する概念である。9年の具体的な内訳については、教育基本法は特に規定せず、学校教育法に委ねている」というふうに説明しています。

日本教育学会ではどういうふうに訳しているか。『教育学学術用語』によると「common education」あるいは「universal education」、「general education」と訳語をあてています。commonというのは「すべての人に共通の」、そのeducationということ。universalというのは「普遍的な」ということ、どこでもいつでも同じような、ということね。generalというのは、一般的で、そして「特定に特殊化されていない」という意味です。ですから全部を含み込んだような意味なんですね。

■ 普通教育の形態の多様性は時代の要請 ~その論理をもっと精緻に

だから私たちが、もしこの法案を英語で訳すとしたら、どうするか。common educationという形でいいのではないかと思います。いま見てきたようなものが普通教育で、その普通教育を学校でやらなきゃいけないというふうには学校教育法には書いてないわけです。ですから普通教育の形態は多様であっていい、ということが私たちの願いなんです。

ただ先ほど見た学校教育法17条がやっぱり引っかかってくるわけです。憲法、教育基本法で、普通教育を法律でいう学校で行え、というふうにはしていない。国民の義務としてやるという規定だけである。問題の学校教育法第17条ですが、ここで「普通教育」を学校でやるという規定ではなくて、「義務教育」を学校でやれという規定になっている。普通教育を学校でやれというふうには書いてない点、この読み方が微妙です。
したがって憲法にも教育基本法にも普通教育は学校で行えと規定されていないので、種々の場で行うのが当然という論を張る戦略で行うか、学校教育法第18条の規定を拡大して猶予・免除以外の規定を作らせるか、それとも、いまの法律を前提とした上で、私たちが作ろうという法律は、ちゃんとここに位置づくんだという論理づけを発見していくか、これが問われています。

ただ実際には、もし第17条は普通教育を学校教育でやれというふうに書いてあるとするならば、それは1945年にできた段階での、20世紀的な学校のイメージがあったときの規定であって、現代ではもう時代に合わないのだ、というふうな論理を作ることも可能です。
私たちとしては、普通教育の形態の多様性が時代の要請になってるという論をもう少し精緻にする必要がある。現在の学校教育法では、すべての子どもの学ぶ権利を保障できない、つまり、普通教育を豊かに展開することができない、ということを論点とするという形で、この法案が新しい提案をしているんだ、ということを訴えたい。是非、もう少し皆さんで議論を深めていきたいというところです。

現在の法律のなかには多少曖昧なところがあって、普通教育という言葉は一般的に使われているんですが、普通教育とは一体何かということについてはほとんど議論されていないということですね。私は、普通教育とは人間としての基礎・基本をきっちりと豊かにしていくための教育であるということ、それは教育基本法では学校でやれというふうには書いていないということ、これをきちんと踏まえていくべきと個人的には思っています。そこに食い込んだ、議論ができるかどうかが、私たちがいま問われているんだということをご報告させていただきます。(了)

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